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논문 기본 정보

자료유형
학술저널
저자정보
橋本義則 (日本山口大學)
저널정보
한국고대사학회 한국고대사연구 한국고대사연구 71
발행연도
2013.9
수록면
317 - 353 (37page)

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本稿は、宮城の構造と儀禮空間の配置および古代天皇制の變化の觀点から、日本古代都城の展開の槪要について述べる。
日本古代の都城は古代天皇制と不可分に成立し、現人神天皇が地上に姿を現わすに相應しい儀禮空間·裝置として用意された。それ故に都城、特に宮城は天皇制の展開とともに構造を變化させた。
7世紀後半、天武は中央集權國家樹立のため都城の造營を試みた。7世紀末に實現した最初の都城「藤原」京では、藤原宮に天皇の出御する大極殿が創建され、中軸線上に日常的政務空間とともに國家的儀禮空間が構築された。その後太上天皇制が讓位制と一體となり導入されたが、8世紀前半には2人の天皇の倂存が常態化し、政治的對立が生まれた。
8世紀初め、唐長安城の北闕型構造を採り入れた平城京が造營された。平城京は「藤原」京と異なる構造を採り、平城宮も藤原宮と違い國家的儀禮と日常的政務の空間を分離し異なる2本の軸線上に配置する、儀禮を突出させた構造であった。
8世紀半ば、聖武は中國に倣い複都制の實現のため恭仁·甲賀で新都を營み、難波で都城を再建した。恭仁·難波兩宮は藤原宮の構造を繼ぐが、恭仁宮では新たに2人の天皇の宮を大極殿北の東西に別?に竝置する構造を創出し、甲賀宮でも同?の試みが行われた。
8世紀後半、平城宮は二度の改作を受けて構造を大きく變えた。まず大極殿を東の軸線上に再建して藤原宮の構造を再現し、次いで2人の天皇の宮を東西に竝置する構造を一層明確にした。2人の天皇は權力掌握と皇位繼承で對立を深めやがて藤原仲麻呂の亂を惹起したが、太上天皇が勝利したため天皇制が抱える構造的問題の解決は先送りされた。
8世紀末、桓武は都城を山背に遷し長岡·平安兩京を營んだ。長岡京は平城·難波兩京を統合し複都制を否定した象?的都城であった。長岡宮は藤原宮の構造を受け繼ぐが、大極殿の東西に2人の天皇の宮を竝置した点で後半の平城宮も繼承した。平安京は從來と異なり中軸線を?く意識した都城で、平安宮も中軸線の東西に官司等を陰陽に基づき振り分けた。中軸線上には藤原宮の構造を?し、大極殿北に天皇が神事を行う常設神殿中院を新たに置いた。また國家的儀禮を朝拜と饗宴に分け、國家的饗宴を行う豊樂院を西に創建した。2人の天皇の宮は中院の東西に竝置して計劃されたが、天皇の?裏だけが造營された。9世紀初頭藥子の變で天皇の太上天皇に對する優位が確定し、太上天皇は宮城を去り京?外に宮を設けるようになり、天皇制が抱えていた構造的問題は解決され、また平安宮の構造は嵯峨によって儀禮とともに固定された。

목차

국문초록
Ⅰ. 머리말
Ⅱ. 천황의 도성 「藤原」京의 성립 - 大極殿의 시초와 高御座의 창조, 讓位制와 二王制를 기본으로 한 천황제 -
Ⅲ. 도성의 전개(平城京?恭仁京?甲賀宮)와 천황제의 모순 - 太上天皇의 自立化와 천황에 대한 우위의 확립 -
Ⅳ. 천황제의 전환과 도성의 고정화 - 桓武에 의한 새로운 도성 조영, 長岡宮과 平安宮 -
Ⅴ. 맺음말
참고문헌
日文抄錄

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