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학술저널
저자정보
저널정보
대구사학회 대구사학 대구사학 제91권
발행연도
2008.1
수록면
21 - 45 (25page)

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 壱岐島は、対馬島とともに韓半島南海岸地域と日本列島北部九州地域との間の大韓(対馬)海峡に飛び石状に浮かぶ島である。この海峡は、旧石器時代以来継続する日韓文化交流における重要なルートとして位置づけられ、対馬島と壱岐島はその中継地としての機能を果たしてきた。本稿では壱岐島における縄文時代から古墳時代にかけての日韓文化交流の痕跡について概観するとともに、その時代的な変遷と各時代の対馬島における様相との比較を通じて、壱岐島が日韓交流においてどの様に位置づけられてきたのかについて検討した。  まず、縄文時代における日韓文化交流は、主に漁撈活動を行う過程における様々な接触に伴って文物の移動が生じたものと考えられるが、時には黒曜石や食料などの生活物資を入手するためにある目的をもって積極的な交流·交易が行われる場合もあった。その様な中で、壱岐島における縄文時代遺跡の形成時期と日韓文化交流が活発に行われた時期とがほぼ一致し、比較的規模の大きな遺跡が島の西海岸に点々と分布している状況などから判断して、壱岐島が交流·交易における中継地とされていた可能性が考えられる。  次に、弥生時代になると中国大陸や韓半島から文物の組織的な入手が行われることとなるが、『魏志倭人伝』に「一支国」として登場する壱岐島では、縄文時代と比べて遺跡の数が増加し、規模においても大規模な集落遺跡が形成されるなどの変化が認められる。それらの遺跡の中心集落であったと考えられるのが、多重の環濠によって取り囲まれた原の辻遺跡である。原の辻遺跡からは様々な地域との交流·交易によってもたらされた土器·金属製品·ガラス製品·玉類などの遺物が出土しているだけでなく、船着場遺構で確認された敷葉·敷粗朶工法や建築部材である床大引材など、最新の土木·建築技術が導入されていたことが分かる。その他の発掘調査成果を通じて、弥生時代の壱岐島が地理的な利点を活かした交流·交易拠点として積極的に文物·技術·情報の移動に携わっていた可能性が考えられる。  そして、古墳時代の壱岐島の遺跡のほとんどは古墳に代表される墳墓であり、副葬品などの中に日韓文化交流の痕跡を認めることができる。壱岐島において明確な墳丘を備えた古墳の出現は5世紀後半であるが、島内に残された古墳のほとんどは西暦527年に起こった「筑紫君磐井の戦争」以後の6世紀中頃以降に築造された古墳である。それらの古墳からは、特に首長墓と考えられる大型墳の副葬·供献品を中心として、中国大陸·韓半島からもたらされた土器·陶器類、金属製品、ガラス製品などが出土するとともに、中央政権との関係を示す遺物の出土も認められる。それらの状況から、古墳時代の壱岐島は交流·交易中継地としてだけでなく、対外防衛のための兵站基地として中央政権によって位置づけられていたものと推察される。つまり、当時の壱岐は、政治·経済·軍事的に非常に重要な拠点であった可能性が考えられる。

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