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논문 기본 정보

자료유형
학술저널
저자정보
박성희 (동의대학교)
저널정보
대한일어일문학회 일어일문학 日語日文學 第49輯
발행연도
2011.2
수록면
239 - 259 (21page)

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日本の洋畵界の巨匠である黑田淸輝は、日本のみならず朝鮮·フランス·臺灣などの美術界、敎育界、文學界、政治界にかけて?範?な圍影響力を持っていた。彼の弟子の中の一人である高羲東は、植民地朝鮮の洋畵界で先驅け的な役割を擔當した。しかし?田とは違い高羲東の場合、西洋畵家としての作品の活動は長くなかった。作品として肖像畵の3点にとどまってしまった点は、近代朝鮮の?壇の未成熟な面として、?念に思われる。
朝鮮と日本において洋?の導入過程は??の?史と時代?況とをよく反映している。洋?導入の困難や需用者の間の見解の差なども重要な部分であったが、何よりも新しい題材や技法の導入で、主體に?する自覺が現れるということが分かった。朝鮮において美術槪念の受け入れと??、美術行政の成立とそれにともなう近代畵壇の形成は、植民地の初期に日本美術學校で?んだ人?から、その次世代に 連結されていた。
植民地という特殊性により半世紀も以前に、すでに日本で進行された開花の風は19世紀末、朝鮮に上陸したが、結局自律的な近代化には失敗したし、新しい美術の流れもこのような狀況から自由になれなかった。韓日合邦條約が締結されると、我?文化の中の心地ははっきりとソウルから東京に移されることになった。最初の美術の留學生らが日本に渡ることになったこともこういう背景であった。
ささいなことへの?心、ありのままの表出などは未熟であるが、兩國の若い?家の中で主?を探し始める苦?がにじみ出ていた。このような狀況は文學でも同じ現象で現れたし、多くの文人らが東京を據點として活動を?げた。しかし留學を通じて新しい媒介を習得したにも?わらず貴國後、保守的なアカデミズムで陷沒されてしまったことは?念なことである。ここにも日本へ偏重された留?の産み出した問題点であろう。無批判的で、現實の認識や時代狀況が排除された、形式主義としての技術導入の段階を越えようとする努力がより一層徹底的に要求されると思われる。

목차

〈要旨〉
1. 들어가며
2. 조선 근대 洋畵의 선구
3. 일본 근대 洋畵의 巨匠
4. 구로다를 넘어서
5. 나오며
參考文獻

참고문헌 (25)

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